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いちどアップしましたが大幅に書き直しました。


風太郎が語るように、忍法帖は「ただ無意味なものが書きたかった」
という魂胆から書かれたシリーズで、
例えば甲賀忍法帖は歴史を知っていれば結末が分かる仕掛けで、
それでなお20人が死ぬ過程だけを読ませる無意味なエンタメ小説です。


しかし、この甲賀忍法帖は発表年代を見れば分かるように
戦後すぐの作品なんですね。
そんな戦後時代に、
ゲームのように人間がただ殺し合う様だけを描いた小説は
何を意味しているか、
風太郎はご存知のように「戦中派」なので
あの頭のいい人が「無意味なものを書きたかった」とか何とか言っても
ただ単に本当にくだらん小説を書くわけがない(笑)


その「無意味である」ということに意味があり、
人生の儚さや歴史の浅はかさ、
ことに真実を如実に表しているような気がします。
その歴史の無意味さを端的に表しているのが、
たとえば『魔群の通過』と『忍法八犬伝』。


まず『魔群の通過』は、
幕末に実際に勃発した天狗党事件を細やかに描いた歴史小説で、
血で血を洗う天狗党事件の悲劇は歴史において抹消され、
ただ凄惨な血が流れただけのツジツマの合わない
まったくむだな出来事として描かれています。
この物語は風太郎の奔放な発想力をあえて押さえて
史実をなぞるように忠実に書かれており、
天狗党事件を通して歴史とは「無意味な」ものの
産物であることを示しています。


そして『忍法八犬伝』。
忍法帖シリーズの一作で、馬琴の南総里見八犬伝を
パロディ化した作品ですが、このラストについて、
八犬士の活躍のおかげで里見家断絶は逃れたかと思っていたら、
なんと歴史を見ればその後すぐ里見家は断絶する運命にあります。
すると、命を失った犬士たちの活躍は無意味なもので、
物語の虚無感をいっそう引き立てるんですが
この結末は先に述べた『魔群の通過』と同じく
「無意味」なもの。
『忍法八犬伝』は虚構のストーリーを通して
歴史の無意味さを物語っており、『忍法八犬伝』も『魔群の通過』も
歴史の無意味さを共通のテーマにしています。


あんなエンタメに徹しきった小説群(おもに忍法帖)に
横たわる凄まじい虚無感はやっぱり「無意味だから」こそ味わえる
もので、中毒になる人はたぶんこの虚無感をもう一度
味わいたいからという点もあるんじゃないかなあ。
げんに私自身が、この読後の崖から突き落とされるような虚無感に
もう一度めぐりあいたくて読み出したクチですし(笑)
普遍的なものがあるから、読まれるんでしょうね。
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SKIN:Babyish-
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